言語と論理と述語性について

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【Friday Night Philosophy 】

こんばんは。今夜のFriday Night Philosophyへようこそ。

もうずいぶん若かった時の話であるが、わたしは、加藤周一が『夕陽妄語』の中で何気なく書いていた言葉がとても気になった。

彼が哲学でもっとも関心のあることとして、「論理学と集合論と言語が交わるところ」といったようなことを言っていたのである。詳しい記述はなかった。神学ではカール・バルト、文学ではグラハム・グリーンに関心がある、といったように、さまざまな分野での関心事を列挙したような文章であった。

言語と論理学と集合論がどのように関連するのか、若かったわたしには全く想像もできなかった。ただ、そこには何か重要なことがあるのだろうと感じたのである。

しばらくしてから、わたしは岩波新書で出ていた、沢田允茂の『現代論理学入門』を読んだ。その趣旨は、「知的世界を構築するためには、言語の曖昧さを排し、論理を基礎におくべきだ」といった明晰なモダニズムの宣言だったように記憶する。しかし、わたしには今ひとつうまく知的に消化しきれない内容であった。

言語と論理がどのように関係するのか、若かったわたしの内でも、それを知りたいという思いは燻(くすぶ)り続けていた。

千葉高等学校の2年か3年の時、年代から言えば1970年頃であった。新人の英語教師がチョムスキーの生成文法についての補習講義をしてくれた。ちょっと顔を出したのだろう、シンタックス(統語論)を形式的な理論で解釈しようとするアプローチには驚いた。と同時に、言語とはそんなに形式的に解析していいのだろうか、という疑問ももった。

沢田らの「論理による明晰化」は、次の世代(チョムスキーの生成文法や初期認知科学)の研究者においては、「論理のほうが言語よりも基礎にある」という方向へと怒涛のような勢いで突き進んでいった。彼らは言語までも数理的に解析し、脳内の「論理計算(アルゴリズム)」によって生み出せるものとして定義しようとしたのである。

この場所で、言語と論理と集合論が交わる。述語論理の形で言語を整序していけば、文は「there exists x in A (元 xが集合 A に属する)」という形で、集合論的に捉え直せる。この数理化によって、言語は論理に、そして論理は数理に変換される。

しかし、集合論の考え方で、述語性の本来の意味が汲み尽くせるだろうか。

述語性とは、本来言語が持っていた、文脈を受け入れ他者を包み込むという「慈愛による包摂(包容)」のダイナミズムだったはずである。そのような包み込む働きとしての述語性を、元が集合に包摂されるという形式的な考え方だけで汲み尽くせるはずもない。「述語性」を形式化し尽くそうとしたこのアプローチは、言語が本来持っていた関係性のダイナミズムを、無意味なノイズとして切り捨ててしまったのである。

西田幾多郎は、これとは反対に、言語のもつ「包み込む述語性」を極限まで拡大しようとした。しかし、彼も「場所の哲学」を打ち立てる際、集合論の明晰さを借りようとしたために、「場所」によって現実の矛盾や対立までをも包み込もうとした。その結果、「場所」は無限大に肥大化し、「絶対無の場所」へと突き抜けた。

だが、そこでは、もはや「どれが belong(所属)するかしないか」という境界線そのものが消滅している。分けることを本質とする集合論や論理学は、そこでは成立しない。

計算主義は、境界線を保持しつつ集合に属するかどうかで、述語性のもつ包容の慈愛を切り捨てた。その反対に、西田哲学は、包容を無限大にしようとしたことで、論理や形式を捨てたとも言える。

これらのどちらの極端な解釈にも偏らず、「言語本来の述語性の本質を、そのままに理解すること」。これこそが、言語の、そして人間の認知構造に対する最も正当な理解ではないだろうか。

冷たい回路(計算)でもなく、すべてを溶かし込む絶対無でもない、具体的な生の時間の中でダイナミズムを持って機能していく「関係性の網の目としての述語性」。

そのような方向性で、言語と論理を捉え直すことが、現代における最も喫緊の課題ではないだろうか。