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  • 文学の復権と二人称

    【Friday Night Philosophy 】

    こんばんは。今夜のFriday Night Philosophyへようこそ。


    スマホの画面を見つめながら、情報をどんどん処理しているけれど、ふと空しさや孤独を感じることはないでしょうか。


    近年、「文学離れ」が進んでいるようです。不読率が急増し、読書量も減少していると言われています。文章を読むときに、紙の書籍よりも電子媒体が普通になってきています。そして、タイムパフォーマンスの観点から、たとえ文学作品を購入して読むにしても、プロットを手軽につかめるSNSや動画に頼る傾向が顕著なようです。


    このような「文学離れ」の背景には、IT化が進んだこともあるでしょう。また、日本においては、国語教育で文学を軽視する傾向(実用国語への偏重)があったこともあります。しかし、教育現場でも「本当にそれでいいのか?」という危機感があったのでしょう。国語教育における文学復帰の動きが始まっています。


    わたしは文学の楽しみは、原作のテキストをゆっくりとひとつひとつ文字と言葉を辿っていって、初めて味わえると考えています。


    たとえば、川端康成の『雪国』のテーマは主人公駒子の激しい恋であると断定し、そのプロットを辿るだけでは、文学としての美しさは理解できません。わたしなどは、そのプロットよりも、細部の文章の美しさの方がずっと魅力的に感じられます。


    例えば、『雪国』の以下の文章などを読むと、よくこのような文章が書けたものだと思います。


    「一面の雪の凍りつく音が、地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。」(岩波文庫版、p.46.)


    「「こんな夜は音が違う。」と雪の空を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。劇場の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々までまっすぐに響いて行った。」(岩波文庫版、p.75.)


    「向岸の急斜面の山腹には、萱の穂が一面に咲き揃って、眩しい銀色に揺れていた。眩しい色と言っても、それは秋空を飛んでいる透明な儚さのようであった。」(岩波文庫版、p.120.)


    また、小説ではありませんが、若山牧水の歌で、


    「ふる雪になんのかをりもなきものをこころなにとてしかはさびしむ」(若山牧水歌集、岩波文庫版、p63.)


    というのがあります。これなども、言いたいことをより分かりやすい文章にして、


    「降る雪には何の香りもないのに、心はどうしてこんなに寂しくなるのでしょう。」


    と書き換えることができます。しかし、これでは単なる「情報の伝達」になってしまいます。この書き換えによって、この短歌の形で、この言葉遣いでしか表現されえなかった作者の感受性が、跡形もなく消滅してしまうのです。私たちは、情報を求めて文学を読むのではないはずです。


    今思いついたものを挙げたので、具体例としては不足しているかもしれません。しかし、文学の表現の価値や魅力はプロットや命題として抽出できる内容だけにあるのではありません。その表現で用いられている一言一言こそに、本来の魅力があります。


    そもそも言葉は対話で用いられます。対話の一言一言は、それを発する人の個性的な感受性をも含めて、その人の存在そのものから発せられています。それを落ち着いてゆっくり聞くことによって、その人との本来の対話をすることができます。


    このような本来的な対話への回帰は、グローバルな経済や政策の場でも起こっています。OECD(経済協力開発機構)などは、以前は、スキルや生産性、効率中心の教育を重視していました。しかし現在は、彼らも「人間同士の相互関係性(Well-beingや共同エージェンシー、他者と共に生き、共に社会をよくしていく力」を重視する方向へと舵を切っています。


    このような人間的な対話を重視する教育は、人間関係における二人称性を大切にする文学の再評価にも繋がっていると思います。正確な情報の伝達と交換だけでなく、お互いの存在と感受性を認め合う人間的な交流の重視です。


    文学を読むとは、客観的なデータ(三人称)を処理することでも、独りだけの殻(一人称)に閉じこもることでもありません。かつてその言葉を紡いだ作者に、二人称として向かい合い、その感受性を受け止め、時間をかけてこちらの感受性をそこに共鳴させていき、さらには応答していく営みです。


    今、心理学や哲学でも、二人称への関心が高まっています。そのような相互に二人称として関わり合うことへの再評価が、文学の復権へも繋がっていくことを願っています。