カテゴリー: 研究ノート

  • Researchmap 「研究ブログ」からの転載

    このホームページを始める前から、わたしは随時researchmap「研究ブログ」に、報告などを書いていました。researchmap「研究ブログ」から。記事を一つここに転載します。researchmap「研究ブログ」には、複数の記事を書きました。これはその中の一つです。

    以下は、researchmap「研究ブログ」にわたしが2025年3月22日に掲載した報告です。

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    第23回「注意と認知」研究会に参加・発表しました

    (投稿日時 : 03/22   川津 茂生  カテゴリ:報告)

    2025年3月9日から11日まで開催された第23回「注意と認知」研究会に参加しました。都合で10日のみの参加とさせていただき、10日の午後の部で「相互受容性の内在化としての認知過程」と題して発表をしました。多くの実験的な認知心理学関連の発表がなされた中で、哲学的な内容の発表をさせていただき、大変感謝しています。

    この発表は、これまでのわたし自身の研究をさらに展開したものです。認知過程がコンピュータでシミュレートされうる情報処理として理解されることに対して、わたしは批判的な立場から研究をしてきました。しかし、現代の認知心理学の主要な成果を支えていると言っても過言ではない情報処理の考え方を、全面的に批判してきたということではありません。むしろそれを尊重しつつも、それを越える考え方を探求してきました。

    この発表の主なポイントを、以下のように整理してみました。

    (1)特徴統合を言語的な観点から再解釈し、特徴の述語的記述の主語的表現による統合と捉える、

    (2)その過程を述語的受容性の主語的表現による受容すなわち受容性の受容性として定式化する、

    (3)脳内の〈受容性の受容性〉は環境と生命個体の間の負のエントロピーの〈相互受容性〉の個体への内在化と捉える、

    (4)脳内の受容性の反復は〈分散的受容性〉の〈統合的受容性〉による統合の反復と捉える、

    (5)受容性の反復は述語の主語による統合の反復でもあり、また不飽和な論理的構造が飽和されるプロセスの反復でもある、

    (6)ニューラルネットで分散的受容性の統合的受容性による統合の反復で、前論理的状態から論理的構造の生成が反復される、

    (7)反復のプロセスは一定の自由度を繰り返し用いつつ、主語的表現を繰り返し書き換える、

    (8)〈主語〉が一定の自由度をもって繰り返し書き換えられる様式によって、〈主語〉が〈主観〉/〈主体〉へと成長する、

    (9)自由度の反復的な適用が自由意志や自己意識の生成を可能にしており、クオリアの生成もそれを背景に可能となる、

    (10)環境と個体間の相互受容性は客観的な意味での受容性でreceptivityと呼べるが、脳内では受容性が反復され自由度が高まっていくことにより、主観的意味合いの強いacceptanceへと変貌する、

    (11)以上のようにして、認知過程を言語に準えることで情報処理とは異なった見方が可能となる。

    以上は、発表のポイントを後から振り返って反省しつつ纏めたものです。

    さらに要点を絞ってみると、認知過程の情報処理としての理解を言語に準えた解釈によって、述語的記述のステージが前論理的状態のステージであることを確認したことがもっとも重要な点です。情報が一旦述語的な前論理性へ落とされるとことで、論理的構造の生成が前論理的構造から出発せざるを得なくなっていると考えられます。述語性が主語性によって統合される際に、一定の自由度を保持した確率論的な過程が必要となります。そのモードが何度も際限なく繰り返されることで、主語の書き換えは無際限に継続します。常に一定の自由度をもって書き換えられる主語というものが、次第に自由な主体あるいは主観に成長していくと考えることは、それほどの違和感なく一般的にも了解可能でしょう。

    これが哲学的な認知と意識の理論に過ぎず、心理学的には厳密な検証が必要なことは言うまでもありません。

    しかし、言語に類似した見方を取り入れることで、特徴統合が一旦述語的記述としの特徴受容を経過するという部分において、主語不在でシンタックスが未定の前論理的状態に落とされているという理解が可能になります。すなわちその場所で、処理過程が論理的に不安定で不確定な状態に落ちこんでいるとも言えます。そこから論理的構造の生成あるいは形成へと処理が進むわけですが、その際一定の自由度が挟まってきます。しかもこのモードが際限なく反復されるということになりますと、何度も繰り返し生成され直される主語というものは、生成されている認知構造の中心/アンカーでありながら、常にある程度の自由度を行使しつつ生成され直されるということにもなります。

    認知構造の中心的としての主語が、前論理的状態からの論理的構造への生成過程を通して、つねにある一定の自由度を保持しつつ生成されるとすれば、その主語が自由な主観あるいは主体へと変貌していくのだという理解は、科学的にもそれほど無理なく了解可能であると思われます。

    以上は、この時の発表では必ずしも表現しきれなかった点を多少補いつつ整理してみたものです。

    補足として、受容性の理論は将来的には、広い自然的世界への展開を視野にいれています。さらに、受容性また述語性とは、実は二人称的なものとしても理解できます。したがって、脳内の認知過程のベースに受容性あるいは述語性の考え方を据えたのは、二人称を脳内の処理過程へと組み込んだという理論的意味合いを含みます。またその意味では、哲学的理論としては、より広い意味で二人称を基本とした哲学あるいは宗教哲学との繋がりも視野にいれた探求となっています。

    論理よりも言語を基本的としたこと、そして、言語をシンタックスとしては不飽和な述語性だけの場面へと遡源して捉えたこと、それによって述語性が受容性としてもクローズアップされ、論理を越えた述語的受容性を基盤とする哲学また宗教哲学との繋がりの可能性が見えつつあること、これらが、わたしの探求の背後にある深い思考の一部です。

    ここまでで気づかれた方も多いと思いますが、わたしの考え方は京都学派の影響下にあります。情報処理の考え方をそこから書き換えることを考えています。情報処理を全面的に批判するというような意味合いではありません。そうではなく、すでにある情報処理心理学の成果を、別の観点から読み替えるあるいは書き換えるということを目指しています。

    追記:発表予稿、補足資料(ハンドアウト)、発表のパワーポイントを資料公開で公開しました。 

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    この研究ブログでは、第23回「注意と認知」研究会での発表についての解説を書きました。他のブログ記事は以下のURLで読むことができます。

    /https://researchmap.jp/read0044216/research_blogs

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    English Summary


    My Presentation on “Attention and Cognition”

    I presented a philosophical perspective on cognitive processes at the 23rd “Attention and Cognition” conference. This presentation offered a critical but respectful alternative to the information-processing model of cognition.

    The main argument is that cognitive processes can be reinterpreted from a linguistic perspective. I propose that feature integration is not just a process of information processing but rather an integration of predicative descriptions by a subjective expression. This process, termed the “receptivity of receptivity,” is seen as the internalization of “mutual receptivity” between an organism and its environment.

    I further argue that the repeated processing of this receptivity within the brain, particularly in neural networks, allows for the gradual emergence of logical structures from a pre-logical state. During this process, a certain degree of freedom is repeatedly applied, which transforms the “subjective expression” into a free subject or self-consciousness with free will and qualia.

    This theory suggests that by viewing cognition through the lens of language, particularly its predicative and receptive aspects, it is possible to generate a more nuanced understanding of how consciousness and subjectivity emerge. I acknowledge that this philosophical framework requires rigorous psychological verification. This research is influenced by the Kyoto School of philosophy, aiming to reinterpret—rather than simply criticize—the achievements of information processing psychology.

  • Receptivity について

    receptivityは、「受容性」あるいは「感受性」と翻訳できる。英語のreceptivityは、receiveと同じ語源の言葉であるから、「受け取る」「受理する」「受ける」「経験する」「応じる」などの意味で理解されている(研究社英和中辞典第6版による)。語源は、ラテン語のrecipere「再び取る、受け取る、受け入れる」である。

    わたしがrecipereを語源とする言葉に注目し関心をもったのは、北米に留学して、心理学を学び始めたころである。わたしは、1980年から2年半在学したWest Virginia Universityで、心理学を専攻した。それ以前に、日本の大学では心理学の授業をとったことがなかったので、学部の心理学入門から順番に受講した。その中には、感覚と知覚、生理学的心理学の授業もあった。

    それらを受講して、視覚や聴覚などの感覚刺激を受容する細胞を、英語ではsensory receptorsと呼ぶ。これは日本語では感覚受容器と呼ばれるので、たいへん硬い言葉に聞こえる。日本語の感じとしては、感覚刺激を受容する生物学的な機器のようなものをイメージする人も多いであろう。そういったイメージは間違いではなく、まさにその通りなのである。しかし、わたしはなぜかこれが英語ではreceptorsと呼ばれているということに対して、一種の共感に近い感覚をもったのである。

    その感情を解き明かしてみると、やはり生命が、刺激をたんに機械的に受容するかたちで処理しているという、味気ない事態ではなく、なにかもっと生命的な、他なるものを受容するあるいは受け入れるといった、主観性あるいは精神性に近いものを、この言葉に読み込みたいという、感傷的な思いがあったと言えるだろう。しかし実際には、例えば光を受容する網膜の細胞では、そんな感傷的なことは起こっていない。桿体や錐体と呼ばれる視細胞は、光を吸収すると、細胞内で一連の化学反応が生じ、それによって細胞の膜電位が過分極を起こす。それが視細胞からの信号となって視神経を通過して脳内へと送られる。そのどこをみても、物質的なレベルで解析できるメカニカルな事象が継起しているだけである。それが充分わかっていても、生命が何かを受容する最初のステップとして、sensory receptorsにおいても、何らかの生命的なものが在るような、というよりあってほしいような思いがあった。

    多くの心理学者は、このような感傷的な思いに対して、それは科学的な研究の妨げになるだけだと言うだろう。じっさい客観的で科学的な研究をしているときに、データにしろ初期のメカニズムにしろ、そこに何らかの主観性に近い、いわばスピリチュアルなものを読み込んでしまったら、その時点で、科学的探究は失敗だと言わざるを得ないのである。

    receptorsあるいはreceptivtiyについての、わたしの考えの変遷がその後どのような経過を辿ったかは省略するが、現在のわたしの考えは次のようなものである。それは、受容性の概念に、連続性をもったスペクトラムの考え方を導入してみるのである。結論からいうと、受容性にはスペクトラムがあり、その一方の端では、完全に物質的でメカニカルな受容がなされているが、その反対の端では、主観性をもった他者の受け入れとすら呼べるような受容性が生じている、と理解するのである。

    このような連続性をもったスペクトラムを考えてみても、そのスペクトラムのどこか途中で、物質的なものが主観性に重心を移動するなどということは、通常理解しにくいことである。このようなスペクトラムが主観性への階梯を順次登っていくようなメカニズムはいったいあるのだろうか。その答えとして、わたしは、並列分散処理において、条件付き確立によって一つ上の層へと推論の処理が進行するたびに、そこで働いている一定の小さな自由度が、処理が重層化にするにつれて自由度も重層化することによって、かなりの自由度を保持した主観性に近いものへと成長していくのではないか、と想定している。

    この並列分散処理の重層的高次化が、別の項目でも指摘したように、述語的なものが主語的なものによって統合されるというプロセスの重層化でもあることを踏まえると、主語の高次化によりかなりの自由度をもった主語=主観が成長してくるという想定も可能となる。

    説明が駆け足なので、分かりにくいとは思う。しかし以上のような理論的背景により、わたしは今でも、receptivityが最初の段階では主観性をもっていないとしても、順次脳内での処理の重層化によって主観性が生成されるとすれば、そこに上述のような連続したスペクトラムを見ることは、あながち間違いとは言えないと考えるのである。

    このようにして、わたしが1980年に、receptorsという言葉に抱いたロマンは今も生きている。

    ここで紹介してたわたしの理論については、この秋出版予定の『生活と言語』(北樹出版)に詳しく述べてある。

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    English Summary


    On the Concept of Receptivity

    I explore the concept of receptivity, tracing my interest back to my time studying psychology in the U.S. in the 1980s. While taking courses on sensation and perception, I was struck by the term “sensory receptors,” which refers to the cells that receive stimuli like light and sound.

    Despite knowing that these receptors function in a purely mechanical way—for example, retinal cells undergoing chemical reactions to absorb light—I felt a romantic connection to the term, hoping it implied something more vital or subjective than a simple mechanical process. I acknowledged that this sentiment runs counter to scientific objectivity, as interpreting spiritual or subjective elements into data would undermine a scientific approach.

    My current, more evolved view on receptivity is that there is a spectrum of receptivity where one end is purely mechanical, and the other end involves a more subjective form of reception, like the acceptance of another person. This transition might occur, as parallel distributed processing moves to higher layers, and a small degree of freedom at each level builds up. This “layering of freedom” could lead to the emergence of subjectivity, which I see as a sophisticated, higher-order subject integrating predicates.

    I argue that the initial, mechanical receptivity can progressively generate subjectivity through the brain’s layered processing. The initial “romantic” feeling I had about the term “receptors” in 1980 is still alive in this more refined philosophical model.