カテゴリー: 報告

  • 一般人称理論について

    科学と心を繋ぐ「一般人称理論」という挑戦 ──『生活』三部作の軌跡

    1. 初期のアプローチ:対立と調停

    私のこれまでの研究、特に初期の段階では、人生の危機としての「心の病」と、科学の危機としての「脳と意識の問題」が、実は共通して「一人称と三人称の対立」という構造を持っていることを指摘してきました。

    心の病は、生きられる「私(一人称)」と、客観的に観察される「私(三人称)」の間の齟齬から生じます。同様に、意識と脳の問題においても、一人称としての「意識(体験)」を、三人称的な物質である「脳」から説明することは極めて困難です。

    この深い対立を調停するには、一方の立場に加担しない「第三の項」、すなわち媒介者としての「二人称」が必要であると私は主張してきました。

    これは宗教的経験においても同様です。人は根源的虚無を経て、二人称としての「存在」に出会うことで救済されます。そこでは自己救済は原理的に不可能であり、自己を断念し他者へと開かれることを通じて、媒介者としての「先駆的二人称」へと変貌していくのです。

    かつて私は、意識の発生においても、このような先駆的二人称的な母胎が必要であると結論づけました。

    2. なぜ「一般人称理論」が必要だったのか

    しかし、ここで一つの壁に当たります。

    初期の議論では、社会的な実存の葛藤(心の病など)から出発して二人称の必要性を説き、それをそのまま「脳と意識」の問題にも当てはめようとしていました。しかし、「なぜ脳科学の分野でもその枠組みが有効なのか」という点については、必ずしも十分に論証できていなかったのです。

    そこで私は、研究のスタンスを根本から見直すことにしました。

    • 意識の研究: 一人称性を損なわない「現象学」のアプローチ。
    • 脳の研究: 心理学や医学、あるいはAI研究のような「三人称の科学」のアプローチ。

    この二つは、基礎となる人称が全く異なるため、どちらか一方の立場に立つ限り、もう一方を十分に説明できません。

    この行き詰まりを科学や学問として乗り越えるには、それぞれがこだわっている「特殊な立場」を、より一般的な土俵の上で吟味し直す必要があります。

    つまり、現象学(一人称)も科学(三人称)も、一度その特殊な立場から自由になり、すべての人称を検討の俎上に載せて、「人称そのものを一般的に研究する(一般人称理論)」のです。

    そうすることで、一人称も三人称も、より高次の「メタ人称的」な視点から公平に再編成することが可能になります。この手続きを経て初めて、「二人称が媒介になる」という理論も、単なる感想ではなく、科学的な対話に耐えうる意味のある理論として展開可能になるのです。

    3. 新たな困難と、解決への道

    こうして「一般人称理論」という枠組みを構築することで、意識と脳の問題解決に向けた理論的な道筋は見えました。

    しかし、そこから先に進むことが、実は非常に困難であることが次第に判明してきました。

    枠組みとして「二人称の必要性」は導き出せました。しかし、「では、具体的に脳内のどこで、どのように二人称が機能しているのか?」と問われると、答えに詰まってしまうのです。

    物理的な神経回路の中で、意識と脳の媒介としての二人称がどう働いているのか。そのメカニズムの解明は困難を極め、人称理論の採用は、かえってさらなる難問を私に突きつけることになりました。

    この問題の解決の兆しが見え始めるまで、私はかなりの歳月を費やすことになりました。

    その具体的な解決策、すなわち「神経回路と言語」をめぐる新たな展開については、次回のブログで書くことにします。

    一言だけ付け加えるなら、これら私の思索の変遷と格闘の軌跡は、以下の三部作にすべて記述してあります。

    • 第1巻『生活と思索:「先駆的二人称」を求めて』
    • 第2巻『生活と論理:人称のロゴスを求めて』
    • 第3巻『生活と言語:「知の言語的統合」を求めて』(2025年12月刊行予定)

    この第3巻が、長きにわたるわたしの問いの「完結編」であり、そこにおいて一応の解決に到達しています。


    English Summary

    Toward a General Theory of Grammatical Person: Bridging the Gap between Mind and Brain

    This article outlines the trajectory of my philosophical inquiry, which culminates in my upcoming book, A Life and Language: Searching for the Linguistic Integration of Science (Vol. 3).

    Initially, I identified a common structure underlying both the existential crisis of mental illness and the scientific crisis of the mind-body problem: the deep conflict between the First-Person perspective (lived experience/phenomenology) and the Third-Person perspective (objective observation/science). To resolve this dichotomy, I proposed the necessity of the “Second Person” as a mediator. In existential terms, this manifests as the “Anticipatory Second Person,” which emerges when one transcends the desire for self-salvation to focus on the salvation of others.

    However, applying this concept to the scientific problem of consciousness and the brain required a more rigorous framework. Simply asserting the importance of the “Second Person” is insufficient to explain how subjective consciousness arises from the material brain.

    To address this, I developed the “General Person Theory” (General Theory of Grammatical Person). This approach requires us to step back from the specific, entrenched stances of phenomenology (purely first-person) and science (purely third-person). By examining “personhood” from a meta-level, general perspective, we can place all grammatical persons on a fair and equal theoretical footing.

    While this General Theory successfully validated the structural necessity of the Second Person as a mediator, a difficult question remained: How exactly does the Second Person function within the neural circuits of the brain?

    The theoretical framework was complete, but the concrete mechanism of how neural activities (third-person) are mediated to generate consciousness (first-person) remained elusive for many years. The solution to this final puzzle—involving the linguistic interpretation of neural network dynamics—is fully detailed in the concluding volume of my trilogy, 『生活と言語:「知の言語的統合」を求めて』(“A Life and Language: Searching for the Linguistic Integration of Science”), to be published in December 2025.


    【著書のご案内 / Books】

    1. 『生活と思索:「先駆的二人称」を求めて』 (A Life and Meditation: Searching for “Anticipatory Second Person”) [Amazon] [楽天]

    2. 『生活と論理:人称のロゴスを求めて』 (A Life and Logic: Searching for “logos” of Grammatical Person) [Amazon] [楽天]

    3. 『生活と言語:「知の言語的統合」を求めて』 (A Life and Language: Searching for the Linguistic Integration of Science) ※予約受付中 [Amazon] [楽天]

  • Researchmap 「研究ブログ」からの転載

    このホームページを始める前から、わたしは随時researchmap「研究ブログ」に、報告などを書いていました。researchmap「研究ブログ」から。記事を一つここに転載します。researchmap「研究ブログ」には、複数の記事を書きました。これはその中の一つです。

    以下は、researchmap「研究ブログ」にわたしが2025年3月22日に掲載した報告です。

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    第23回「注意と認知」研究会に参加・発表しました

    (投稿日時 : 03/22   川津 茂生  カテゴリ:報告)

    2025年3月9日から11日まで開催された第23回「注意と認知」研究会に参加しました。都合で10日のみの参加とさせていただき、10日の午後の部で「相互受容性の内在化としての認知過程」と題して発表をしました。多くの実験的な認知心理学関連の発表がなされた中で、哲学的な内容の発表をさせていただき、大変感謝しています。

    この発表は、これまでのわたし自身の研究をさらに展開したものです。認知過程がコンピュータでシミュレートされうる情報処理として理解されることに対して、わたしは批判的な立場から研究をしてきました。しかし、現代の認知心理学の主要な成果を支えていると言っても過言ではない情報処理の考え方を、全面的に批判してきたということではありません。むしろそれを尊重しつつも、それを越える考え方を探求してきました。

    この発表の主なポイントを、以下のように整理してみました。

    (1)特徴統合を言語的な観点から再解釈し、特徴の述語的記述の主語的表現による統合と捉える、

    (2)その過程を述語的受容性の主語的表現による受容すなわち受容性の受容性として定式化する、

    (3)脳内の〈受容性の受容性〉は環境と生命個体の間の負のエントロピーの〈相互受容性〉の個体への内在化と捉える、

    (4)脳内の受容性の反復は〈分散的受容性〉の〈統合的受容性〉による統合の反復と捉える、

    (5)受容性の反復は述語の主語による統合の反復でもあり、また不飽和な論理的構造が飽和されるプロセスの反復でもある、

    (6)ニューラルネットで分散的受容性の統合的受容性による統合の反復で、前論理的状態から論理的構造の生成が反復される、

    (7)反復のプロセスは一定の自由度を繰り返し用いつつ、主語的表現を繰り返し書き換える、

    (8)〈主語〉が一定の自由度をもって繰り返し書き換えられる様式によって、〈主語〉が〈主観〉/〈主体〉へと成長する、

    (9)自由度の反復的な適用が自由意志や自己意識の生成を可能にしており、クオリアの生成もそれを背景に可能となる、

    (10)環境と個体間の相互受容性は客観的な意味での受容性でreceptivityと呼べるが、脳内では受容性が反復され自由度が高まっていくことにより、主観的意味合いの強いacceptanceへと変貌する、

    (11)以上のようにして、認知過程を言語に準えることで情報処理とは異なった見方が可能となる。

    以上は、発表のポイントを後から振り返って反省しつつ纏めたものです。

    さらに要点を絞ってみると、認知過程の情報処理としての理解を言語に準えた解釈によって、述語的記述のステージが前論理的状態のステージであることを確認したことがもっとも重要な点です。情報が一旦述語的な前論理性へ落とされるとことで、論理的構造の生成が前論理的構造から出発せざるを得なくなっていると考えられます。述語性が主語性によって統合される際に、一定の自由度を保持した確率論的な過程が必要となります。そのモードが何度も際限なく繰り返されることで、主語の書き換えは無際限に継続します。常に一定の自由度をもって書き換えられる主語というものが、次第に自由な主体あるいは主観に成長していくと考えることは、それほどの違和感なく一般的にも了解可能でしょう。

    これが哲学的な認知と意識の理論に過ぎず、心理学的には厳密な検証が必要なことは言うまでもありません。

    しかし、言語に類似した見方を取り入れることで、特徴統合が一旦述語的記述としの特徴受容を経過するという部分において、主語不在でシンタックスが未定の前論理的状態に落とされているという理解が可能になります。すなわちその場所で、処理過程が論理的に不安定で不確定な状態に落ちこんでいるとも言えます。そこから論理的構造の生成あるいは形成へと処理が進むわけですが、その際一定の自由度が挟まってきます。しかもこのモードが際限なく反復されるということになりますと、何度も繰り返し生成され直される主語というものは、生成されている認知構造の中心/アンカーでありながら、常にある程度の自由度を行使しつつ生成され直されるということにもなります。

    認知構造の中心的としての主語が、前論理的状態からの論理的構造への生成過程を通して、つねにある一定の自由度を保持しつつ生成されるとすれば、その主語が自由な主観あるいは主体へと変貌していくのだという理解は、科学的にもそれほど無理なく了解可能であると思われます。

    以上は、この時の発表では必ずしも表現しきれなかった点を多少補いつつ整理してみたものです。

    補足として、受容性の理論は将来的には、広い自然的世界への展開を視野にいれています。さらに、受容性また述語性とは、実は二人称的なものとしても理解できます。したがって、脳内の認知過程のベースに受容性あるいは述語性の考え方を据えたのは、二人称を脳内の処理過程へと組み込んだという理論的意味合いを含みます。またその意味では、哲学的理論としては、より広い意味で二人称を基本とした哲学あるいは宗教哲学との繋がりも視野にいれた探求となっています。

    論理よりも言語を基本的としたこと、そして、言語をシンタックスとしては不飽和な述語性だけの場面へと遡源して捉えたこと、それによって述語性が受容性としてもクローズアップされ、論理を越えた述語的受容性を基盤とする哲学また宗教哲学との繋がりの可能性が見えつつあること、これらが、わたしの探求の背後にある深い思考の一部です。

    ここまでで気づかれた方も多いと思いますが、わたしの考え方は京都学派の影響下にあります。情報処理の考え方をそこから書き換えることを考えています。情報処理を全面的に批判するというような意味合いではありません。そうではなく、すでにある情報処理心理学の成果を、別の観点から読み替えるあるいは書き換えるということを目指しています。

    追記:発表予稿、補足資料(ハンドアウト)、発表のパワーポイントを資料公開で公開しました。 

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    この研究ブログでは、第23回「注意と認知」研究会での発表についての解説を書きました。他のブログ記事は以下のURLで読むことができます。

    /https://researchmap.jp/read0044216/research_blogs

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    English Summary


    My Presentation on “Attention and Cognition”

    I presented a philosophical perspective on cognitive processes at the 23rd “Attention and Cognition” conference. This presentation offered a critical but respectful alternative to the information-processing model of cognition.

    The main argument is that cognitive processes can be reinterpreted from a linguistic perspective. I propose that feature integration is not just a process of information processing but rather an integration of predicative descriptions by a subjective expression. This process, termed the “receptivity of receptivity,” is seen as the internalization of “mutual receptivity” between an organism and its environment.

    I further argue that the repeated processing of this receptivity within the brain, particularly in neural networks, allows for the gradual emergence of logical structures from a pre-logical state. During this process, a certain degree of freedom is repeatedly applied, which transforms the “subjective expression” into a free subject or self-consciousness with free will and qualia.

    This theory suggests that by viewing cognition through the lens of language, particularly its predicative and receptive aspects, it is possible to generate a more nuanced understanding of how consciousness and subjectivity emerge. I acknowledge that this philosophical framework requires rigorous psychological verification. This research is influenced by the Kyoto School of philosophy, aiming to reinterpret—rather than simply criticize—the achievements of information processing psychology.