カテゴリー: これまでの研究

  • Receptivity について

    receptivityは、「受容性」あるいは「感受性」と翻訳できる。英語のreceptivityは、receiveと同じ語源の言葉であるから、「受け取る」「受理する」「受ける」「経験する」「応じる」などの意味で理解されている(研究社英和中辞典第6版による)。語源は、ラテン語のrecipere「再び取る、受け取る、受け入れる」である。

    わたしがrecipereを語源とする言葉に注目し関心をもったのは、北米に留学して、心理学を学び始めたころである。わたしは、1980年から2年半在学したWest Virginia Universityで、心理学を専攻した。それ以前に、日本の大学では心理学の授業をとったことがなかったので、学部の心理学入門から順番に受講した。その中には、感覚と知覚、生理学的心理学の授業もあった。

    それらを受講して、視覚や聴覚などの感覚刺激を受容する細胞を、英語ではsensory receptorsと呼ぶ。これは日本語では感覚受容器と呼ばれるので、たいへん硬い言葉に聞こえる。日本語の感じとしては、感覚刺激を受容する生物学的な機器のようなものをイメージする人も多いであろう。そういったイメージは間違いではなく、まさにその通りなのである。しかし、わたしはなぜかこれが英語ではreceptorsと呼ばれているということに対して、一種の共感に近い感覚をもったのである。

    その感情を解き明かしてみると、やはり生命が、刺激をたんに機械的に受容するかたちで処理しているという、味気ない事態ではなく、なにかもっと生命的な、他なるものを受容するあるいは受け入れるといった、主観性あるいは精神性に近いものを、この言葉に読み込みたいという、感傷的な思いがあったと言えるだろう。しかし実際には、例えば光を受容する網膜の細胞では、そんな感傷的なことは起こっていない。桿体や錐体と呼ばれる視細胞は、光を吸収すると、細胞内で一連の化学反応が生じ、それによって細胞の膜電位が過分極を起こす。それが視細胞からの信号となって視神経を通過して脳内へと送られる。そのどこをみても、物質的なレベルで解析できるメカニカルな事象が継起しているだけである。それが充分わかっていても、生命が何かを受容する最初のステップとして、sensory receptorsにおいても、何らかの生命的なものが在るような、というよりあってほしいような思いがあった。

    多くの心理学者は、このような感傷的な思いに対して、それは科学的な研究の妨げになるだけだと言うだろう。じっさい客観的で科学的な研究をしているときに、データにしろ初期のメカニズムにしろ、そこに何らかの主観性に近い、いわばスピリチュアルなものを読み込んでしまったら、その時点で、科学的探究は失敗だと言わざるを得ないのである。

    receptorsあるいはreceptivtiyについての、わたしの考えの変遷がその後どのような経過を辿ったかは省略するが、現在のわたしの考えは次のようなものである。それは、受容性の概念に、連続性をもったスペクトラムの考え方を導入してみるのである。結論からいうと、受容性にはスペクトラムがあり、その一方の端では、完全に物質的でメカニカルな受容がなされているが、その反対の端では、主観性をもった他者の受け入れとすら呼べるような受容性が生じている、と理解するのである。

    このような連続性をもったスペクトラムを考えてみても、そのスペクトラムのどこか途中で、物質的なものが主観性に重心を移動するなどということは、通常理解しにくいことである。このようなスペクトラムが主観性への階梯を順次登っていくようなメカニズムはいったいあるのだろうか。その答えとして、わたしは、並列分散処理において、条件付き確立によって一つ上の層へと推論の処理が進行するたびに、そこで働いている一定の小さな自由度が、処理が重層化にするにつれて自由度も重層化することによって、かなりの自由度を保持した主観性に近いものへと成長していくのではないか、と想定している。

    この並列分散処理の重層的高次化が、別の項目でも指摘したように、述語的なものが主語的なものによって統合されるというプロセスの重層化でもあることを踏まえると、主語の高次化によりかなりの自由度をもった主語=主観が成長してくるという想定も可能となる。

    説明が駆け足なので、分かりにくいとは思う。しかし以上のような理論的背景により、わたしは今でも、receptivityが最初の段階では主観性をもっていないとしても、順次脳内での処理の重層化によって主観性が生成されるとすれば、そこに上述のような連続したスペクトラムを見ることは、あながち間違いとは言えないと考えるのである。

    このようにして、わたしが1980年に、receptorsという言葉に抱いたロマンは今も生きている。

    ここで紹介してたわたしの理論については、この秋出版予定の『生活と言語』(北樹出版)に詳しく述べてある。

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    English Summary


    On the Concept of Receptivity

    I explore the concept of receptivity, tracing my interest back to my time studying psychology in the U.S. in the 1980s. While taking courses on sensation and perception, I was struck by the term “sensory receptors,” which refers to the cells that receive stimuli like light and sound.

    Despite knowing that these receptors function in a purely mechanical way—for example, retinal cells undergoing chemical reactions to absorb light—I felt a romantic connection to the term, hoping it implied something more vital or subjective than a simple mechanical process. I acknowledged that this sentiment runs counter to scientific objectivity, as interpreting spiritual or subjective elements into data would undermine a scientific approach.

    My current, more evolved view on receptivity is that there is a spectrum of receptivity where one end is purely mechanical, and the other end involves a more subjective form of reception, like the acceptance of another person. This transition might occur, as parallel distributed processing moves to higher layers, and a small degree of freedom at each level builds up. This “layering of freedom” could lead to the emergence of subjectivity, which I see as a sophisticated, higher-order subject integrating predicates.

    I argue that the initial, mechanical receptivity can progressively generate subjectivity through the brain’s layered processing. The initial “romantic” feeling I had about the term “receptors” in 1980 is still alive in this more refined philosophical model.

  • 人称の理論から意識の理論へ

    わたしはこの数年哲学的な意識の理論を展開してきています。しかし、それ以前は、長く、人称の理論を中心に研究発表をしていました。研究のテーマが人称の理論から意識の理論へと移行したのは、関心が変化してまったく新しいテーマを研究するようになったということではありません。

    表面的には、そのような関心の変化に見えるかもしれませんが、じつは、わたしが人称の理論を研究するきっかけには、意識と脳の問題の困難さを乗り越えるための新たな枠組みを探るという方法上の動機がありました。これまでも繰り返し発表して来ましたが、意識を一人称、脳を三人称として人称の枠組で整理すると、問題が理解しやすくなります。その一方で、人称的な対立の解決の困難さはかえって際立ってしまいます。そこで、一人称と三人称の対立を、二人称がそれらの媒介をして取りもち和解させる、という解決案を考えたのです。

    このように人称理論の枠組で意識と脳の問題を整理すると、わかりやすいまとめのように見えます。しかしじっさいに二人称による媒介で、具体的にどのように意識と脳の対立関係が融和し解決していくのだろうかと、さらに考察を進めていきますと、そこから先は五里霧中になってしまいます。そして、結局解決不可能にすら見えてきます。

    人称の理論の行き詰まり状態の中で、わたしは二人称概念を広く哲学的な文脈の中に位置づけることを試みました。そして二人称の概念的な広がりと深化を探る方向を取ることにしました。このアプローチにより、人称や二人称を、たんに言語学的で文法的な概念として捉える一般的な理解を越えて、その本質的な意味と意義を探ろうとしたのです。 

    そのような観点から探求を進めていくと、二人称は通常の文法的な概念や、また対人関係における〈あなた〉といった心理学的な理解を越えて、広く媒介性や媒体性さらには受容性の概念とも、深く通底していることが分かって来ます。受容性の概念は、さらにもう一歩深めていくと、述語性の概念とも連関していることが分かってきます。この受容性から述語性への連関については、西田幾多郎の場所の哲学から学びました。  

    意識と脳の対立を人称理論的に整理したとき、その枠組の中で解決の切り札とて浮上してきた二人称概念は、じつは具体的な解決には不向きな概念でした。しかし二人称の概念的連関をより広い文脈の中に位置づけることにより、二人称概念を受容性あるいは述語性の概念へと連関させ広げていくことができます。その概念的広がりによって、もともとの問題点が克服できるのではないかという希望が見えてきました。

    それがどのようなかたちで、意識と脳の問題の解決へ寄与しうるのかというと、外界の客観的で三人称的なデータが、脳によって受容され、それらが述語として処理されます。そこにおける受容性と述語性が、述語が主語によって統合されるプロセスをへて、主観性でもある一人称を生成するという形に整理できます。これを図式化すると、

    データ(三人称) → 受容性(二人称) → 統合する主語(一人称)

    という、時系列の中で三人称が二人称の受容性の媒介を経て一人称が生成されるという流れになります。この図式が、わたしの脳内で、さまざまな別々の思考と化学反応を起こしました。そして次第に、それが特徴統合の図式と重なってきたのです。この時系列の図式が、特徴統合の流れの図式としても、全く問題なく理解できると気づいたのです。

    じつに長く考え続けた、二人称による媒介という構想が、哲学的な思索のコンテクストへ移し替えることで、やっと生き延びる道を見出したと言えるでしょう。一人称、二人称、三人称を三角形の頂点として配置する平面的な図式では、このような解釈に到達することは困難です。しかし受容性に注目すると、何らかの外界の対象を生命が受容して、それを別のかたちを持ったものへと変貌あるいは成長させるという、時系列の構造として整理できるのです。

    比喩的に言えば、三人称の物質的なデータを生命が受容し、その二人称の受容性が母体となって、そこから新たな一人称の主体性・主観性が成長してくる、と図式化できます。

    以上の記述は、今考えながらまとめたものですが、人称の理論から意識の理論への研究の流れについては、『生活と言語』(北樹出版、秋に出版予定)で、詳しく述べました。長年にわたる研究の経過は、じっさいには試行錯誤の連続でした。それらの全体的な流れは、前二著(『生活と思索 先駆的二人称を求めて』2027、『生活と論理 人称のロゴスを求めて』2020、共に北樹出版より)も含めてお読みいただけると、より深く理解していただけると思います。

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    English Summary (このブログ記事の英文要約を以下に示します。)


    From the Theory of Person to the Theory of Consciousness

    My research shifted from the theory of person to the theory of consciousness, but this was not a complete change of topic. My initial motivation for studying the theory of (grammatical) person was to find a new framework to overcome the difficulty of the problem of consciousness and the brain. Organizing consciousness as the first person (I) and the brain as the third person (he/she/it) makes the problem easier to understand, but it also highlights the difficulty of resolving the conflict between them. I initially proposed that the second person (you) could mediate and reconcile the first and third person.

    However, a closer look at how the second person could specifically resolve the conflict between consciousness and the brain led to a dead end. Faced with this impasse, I tried to situate the concept of the second person within a broader philosophical context, going beyond the typical linguistic and grammatical understanding of the term.

    This exploration revealed that the second person is deeply connected to the concepts of mediation, medium, and receptivity. Furthermore, I found that the concept of receptivity is linked to the concept of ‘predicativity‘, drawing on Kitaro Nishida’s philosophy of basho (place).

    I realized that while the second person concept was not a suitable solution for the specific problem of consciousness and the brain, its broader conceptual connections offered a new path. By linking the second person to receptivity and ‘predicativity’, I developed a new framework:

    Data (Third Person) → Receptivity (Second Person) → Integrating Subject (First Person)

    This framework suggests that objective, third-person data is received and processed as predicates by the brain (receptivity/second person), which then generates the first-person subjectivity through the process of integration. This sequential model aligns perfectly with the feature integration theory in cognitive science.

    This new philosophical approach allowed my long-standing idea of second-person mediation to finally find a viable direction. Unlike a flat, triangular diagram of the three (grammatical) persons, this new temporal model sees a living being receiving material data (third person), and this receptivity (second person) serves as a medium from which new first-person subjectivity grows.

    A detailed account of this research journey from the theory of (grammatical) person to the theory of consciousness can be found in my upcoming book, Life and Language (生活と言語), and my previous two books, A Life and Meditation: Searching for “Anticipatory Second Person (生活と思索:「先駆的二人称」を求めて) and A Life and Logic: Searching for “λόγος” of Grammatical Person(生活と論理:人称のロゴスを求めて).

  • ホームページ作成に当たって

    この度研究の紹介と発信を中心としたホームページを始めるに当たって、動機や背景にある考えなどを、述べておくことにします。

    わたしのこれまでの研究は、古からの心理学者の知人二人が、たまたま偶然に、全く別の機会であったが言ってくれた、私の研究に対する一言の感想が、その性格をかなり的確に描写してくれているように思っています。彼らは、二人とも心理学者です。一人は認知心理学者で、もう一人は臨床心理学者です。そして、お互いには、おそらく交流はほとんどなく、しかしわたしとのつながりは、長年にわたっていました。

    彼らは、まったく違うシチュエーションで、時期も2、3年はずれていたと思いますが、偶然まったく同じ感想を述べてくれました。彼らはそれぞれ自分の言葉で、「川津さんの研究は、若い時から、ずっと一貫しているね。」と言ってくれたのです。

    私の研究歴は、論文や発表のタイトルを見ただけでは、研究のメインストリームからかなり外れたところで、自分の好きなテーマを、半ば自己流に発表をしてきたとしか見られかねないような、外見をしています。しかし、実は、私自身は、ずっと若い時期から、まったく同じテーマを、どうしても現在の研究の主流の方向性とは同調関係に入れないような形で、已むにやまれぬ自己の探求心に導かれ、いわば強引に引っ張れたというか、あるいは、どうしても立ち向かって行かざるを得ないと感じる目標を目指して、実存的な危機感の中で慄きつつ突っ走ってきたのです。

    ですから、この二人の旧知の心理学者の知人は、何の気無しに言った批評であったかもしれませんが、しかし、その言葉は、わたしの研究人生の実存的な一貫性を、見事に見抜いてくれていたのです。それは、内心とても嬉しいことでした。

    ではどのように私の研究が一貫しているのかというと、心理学的には意識と脳の問題とも言えるが、しかし、その問題が、単なる科学的な問題としてではなく、人間存在の意味や価値の問題とも深く関わった形で、その問題を問うというのが、わたしにとっては一貫したテーマでした。心理学的には情報処理心理学の枠組みの中で、単に科学的な研究が進歩していけば、ついには解決するに違いない問題だと、多くの若者は学校で学ぶかもしれません。

    しかし、情報処理とはコンピュテーションの原理をモデルにした考え方です。コンピュータとは、チューリングマシンを実現化したフォンノイマン型コンピュータに代表されるように、0と1のバイナリーなディジットを操作することで、論理計算をする機械です。脳が生物学的な計算機だと考えることは、それと同じ方式ではないとしても、似たような形で、要するに計算をしていると理解することです。その後並列分散処理の考え方が提出されたので、計算のイメージが変化しました。しかし、並列分散処理の計算をするマシンも原理的には、コンピュテーションを行っています。この研究の方式で、人間の認知処理に極めて近い機能が作成できることは論を待ちません。論理計算というのは、ある意味万能なのですから、それによって、人間の知性がシミュレートできるのは、当然であるとも言えるでしょう。

    一方で、もし人間の知性が、たんに計算をしている生物学的な機械なのだとしたら、その理解によって、何らかの重要な生命的なもの、あるいは生きる意味につながる大切なものが欠損してしまうのではないかという、危機感もありえます。そのような生命的な部分や感情や価値観なども含めて、計算による論理的処理で説明が可能であると、多くの心理学者や生物学者は言うでしょう。

    この部分、すなわち生命的なもの、感情や価値観にもつながる生命的なものが、本当に論理計算によって説明可能なのだろうか、という現代では忘れられかけている疑問を、心理学の中心にある情報処理の考え方にチャレンジすることで、乗り越えられないだろうかというのが、わたしの一貫した研究テーマでした。この問題については、多くの哲学者が科学的な心理学を批判していると思いますが、情報処理という心理学の理論的核心について、正面からチャレンジすることはなかなかできていないように見えます。批判するのであれば、批判の対象となっている理論の核心部分について、その問題点を指摘するだけでなく、それに代わる新たな理論を提出する必要があります。

    数十年の研究を経て、わたしが近年到達した考え方が、特徴統合の言語(学)的再解釈による、ニューラルネットの新たな理論的枠組です。特徴統合が、〈述語=特徴〉が〈主語=表象〉によって統合されると理解すると、〈文=主語・述語結合〉は時間的に後から成立することになり、〈文〉からの〈命題〉の抽出、さらにそこからの〈論理〉の構築は、後発的になります。この理論によって、脳が、論理の手前の述語性のみの段階から主語による統合の段階へ向かうプロセスを反復していると想定できます。それはあたかも、論理の手前で、いわば場面的な述語性のステージから主語の探索を経て文を作っていくという、詩人の創作にも似たプロセスを脳がしていると理解することになります。これにより、現象学とも調和的な認知過程の理論が形成できるのではないかと考えられます。

    私は情報処理の核心に切り込んでいき、それを述語性を基盤とする生命哲学、たとえば西田哲学やハイデガーの哲学とも調和する理論へと、変貌させることを目指してきました。こうした言語(学)的再解釈に基づく考え方によって、生命的で倫理的な思考を可能とするニューラルネットの理論構築にも、一定の寄与できるのではないかと考えています。

    このような高齢者らしからぬ熱き思いをもって、研究の発信を目的としたホームページを作成することにしました。

    わたしのこれまでの研究の流れについては、以下の2つの著作を参考にしてください。

    • 生活と思索-「先駆的二人称」を求めて 北樹出版 2017
    • 生活と論理-人称のロゴスを求めて 北樹出版 2020

    English Summary

    Two of my longtime friends, both psychologists—one a cognitive psychologist and the other a clinical psychologist—made a surprising observation. Independently and years apart, they both told me the same thing: “Your research has been consistently focused from a young age.” On the surface, my research might seem unfocused and drifting over various topics, but deep down, I’ve always been driven by a single core theme, one that has guided me through an existential quest.

    This consistent theme is the problem of consciousness and the brain. However, for me, it’s not just a scientific puzzle; it’s a profound question about the meaning and value of human existence. I’ve always felt a sense of crisis with the dominant information-processing model in psychology, which treats the brain as a biological computer based on logical computation. My concern is that this view might be missing something crucial—the very essence of life, emotion, and values.

    Over several decades, I’ve worked to build a new theoretical framework to address this. My recent work offers a linguistic reinterpretation of feature integration theory. I propose that the brain repeatedly moves from a pre-logical state of predicative features to a stage where a subject integrates them. This process is like a poet creating a sentence from a list of words, which allows for a theory of cognitive processes that is in harmony with phenomenology.

    I believe this approach can transform the core of information processing psychology into a philosophy of life grounded in predicativity, one that aligns with philosophies like those of the Kyoto School, Kitaro Nishida, and Martin Heidegger. I hope this perspective will contribute to a neural network theory that can account for ethical and living thought.

    This homepage is a way for me to share this passion. For more details on my research journey, please refer to my two previous books, A Life and Meditation: Searching for “Anticipatory Second Person (生活と思索:「先駆的二人称」を求めて) and A Life and Logic: Searching for “λόγος” of Grammatical Person(生活と論理:人称のロゴスを求めて).