幼い時に、母に読んでもらった本を何冊か覚えている。どれも絵本だった。その中で、もっとも強く記憶に残っていた本があった。それが一番最初に読んでもらった本なのかはわからない。だが、記憶に残っているとても幼いころの思い出の中に、その本を読んでもらったときの情景が残っている。
情景というのは、私のすぐ傍に母がいて、母にその本を読んでもらっている情景である。それが、まるで映画の一コマのように、長く私の記憶に残っていた。それは、もう私自身高齢になった今でも、ほんのりと脳裏に残っている。
それは『安寿と厨子王』というタイトルの絵本だった。母は、わたしにその本を何度も読んでくれた。母親と安寿と厨子王という二人の兄弟が、騙されて離ればなれになる。母親は佐渡に売られ、二人の子供は山椒大夫に捉えられ過酷な仕事を強いられる。弟の厨子王だけがかろうじて逃れ、その後紆余曲折を経て成長して大人になり、佐渡にわたって母の面影を探す。そこで、ふと立ち止まった農家の庭先で、雀を長竿で追い払っている老女が、つぶやくよう歌っているのが聞こえてくる。なんと老女は
安寿恋しや、ほうやれほ
厨子王恋しや、ほうやれほ
と、歌っていた。
この絵本が手元にないので、物語のあらすじは、森鴎外の『山椒大夫』を参考にしながら、わたしの幼い日の遠い記憶をたぐりながら書いた。
私の母は、この再会の場面の母親の歌を、なんどもなんど気持ちを込めて読んでくれた。それでわたしも読んでもらうたびに、幼いながらにその運命の過酷さと再会の喜びの場面で、悲しみを乗り越えてついに再会を果たした喜びがどれほど大きなものだったか、深く感じ入ったのを覚えている。
実は、わたしの母は幼いときに、子供のいなかった実母の姉妹の家の養子になっていた。養子に出たことは、母にとっては辛かったことと思う。もちろん、安寿と厨子王とその母親の苦しみとは比べ物にならないが、それでも母にはやはり、それなりに実母を離れて暮らすことの寂しさがあったことだろう。
その自分自身の経験から、母はもしかしたら、母なりに『安寿と厨子王』の物語に深く共鳴していたのではないだろうか。それは、とくに再会の場面で、母親が歌っていた言葉を、母がわたしに読んで聞かせるとき、思わずその声の深さとなって、現れ出ていたのではないだろうか。
そんなふうに母が読んでくれた時の声の記憶について回想できるようになったのは、私自身、もう40代後半かあるいは50代に入っていた頃だったような気がする。自分自身が歳をとるまで、母の若き日々の内心の想いがどんなだったかに思いを馳せ、母の心の襞あるいはその繊細なつらさや喜びについて、深く理解する力も、また理解しようとする想いすらも持てなかったのではないだろうか。
書物は、一冊の絵本であっても、それを読んだ人がどのような想いをもって、それを読んでいたのかすら、簡単にはわからない。ある感動をもって何度も読んでいたとしても、ひとりひとりがそれなりに持つ感動や感想を、お互いに理解し合うまでには、かなりの人生経験が必要なのではないだろうか。