この度研究の紹介と発信を中心としたホームページを始めるに当たって、動機や背景にある考えなどを、述べておくことにします。
わたしのこれまでの研究は、古からの心理学者の知人二人が、たまたま偶然に、全く別の機会であったが言ってくれた、私の研究に対する一言の感想が、その性格をかなり的確に描写してくれているように思っています。彼らは、二人とも心理学者です。一人は認知心理学者で、もう一人は臨床心理学者です。そして、お互いには、おそらく交流はほとんどなく、しかしわたしとのつながりは、長年にわたっていました。
彼らは、まったく違うシチュエーションで、時期も2、3年はずれていたと思いますが、偶然まったく同じ感想を述べてくれました。彼らはそれぞれ自分の言葉で、「川津さんの研究は、若い時から、ずっと一貫しているね。」と言ってくれたのです。
私の研究歴は、論文や発表のタイトルを見ただけでは、研究のメインストリームからかなり外れたところで、自分の好きなテーマを、半ば自己流に発表をしてきたとしか見られかねないような、外見をしています。しかし、実は、私自身は、ずっと若い時期から、まったく同じテーマを、どうしても現在の研究の主流の方向性とは同調関係に入れないような形で、已むにやまれぬ自己の探求心に導かれ、いわば強引に引っ張れたというか、あるいは、どうしても立ち向かって行かざるを得ないと感じる目標を目指して、実存的な危機感の中で慄きつつ突っ走ってきたのです。
ですから、この二人の旧知の心理学者の知人は、何の気無しに言った批評であったかもしれませんが、しかし、その言葉は、わたしの研究人生の実存的な一貫性を、見事に見抜いてくれていたのです。それは、内心とても嬉しいことでした。
ではどのように私の研究が一貫しているのかというと、心理学的には意識と脳の問題とも言えるが、しかし、その問題が、単なる科学的な問題としてではなく、人間存在の意味や価値の問題とも深く関わった形で、その問題を問うというのが、わたしにとっては一貫したテーマでした。心理学的には情報処理心理学の枠組みの中で、単に科学的な研究が進歩していけば、ついには解決するに違いない問題だと、多くの若者は学校で学ぶかもしれません。
しかし、情報処理とはコンピュテーションの原理をモデルにした考え方です。コンピュータとは、チューリングマシンを実現化したフォンノイマン型コンピュータに代表されるように、0と1のバイナリーなディジットを操作することで、論理計算をする機械です。脳が生物学的な計算機だと考えることは、それと同じ方式ではないとしても、似たような形で、要するに計算をしていると理解することです。その後並列分散処理の考え方が提出されたので、計算のイメージが変化しました。しかし、並列分散処理の計算をするマシンも原理的には、コンピュテーションを行っています。この研究の方式で、人間の認知処理に極めて近い機能が作成できることは論を待ちません。論理計算というのは、ある意味万能なのですから、それによって、人間の知性がシミュレートできるのは、当然であるとも言えるでしょう。
一方で、もし人間の知性が、たんに計算をしている生物学的な機械なのだとしたら、その理解によって、何らかの重要な生命的なもの、あるいは生きる意味につながる大切なものが欠損してしまうのではないかという、危機感もありえます。そのような生命的な部分や感情や価値観なども含めて、計算による論理的処理で説明が可能であると、多くの心理学者や生物学者は言うでしょう。
この部分、すなわち生命的なもの、感情や価値観にもつながる生命的なものが、本当に論理計算によって説明可能なのだろうか、という現代では忘れられかけている疑問を、心理学の中心にある情報処理の考え方にチャレンジすることで、乗り越えられないだろうかというのが、わたしの一貫した研究テーマでした。この問題については、多くの哲学者が科学的な心理学を批判していると思いますが、情報処理という心理学の理論的核心について、正面からチャレンジすることはなかなかできていないように見えます。批判するのであれば、批判の対象となっている理論の核心部分について、その問題点を指摘するだけでなく、それに代わる新たな理論を提出する必要があります。
数十年の研究を経て、わたしが近年到達した考え方が、特徴統合の言語(学)的再解釈による、ニューラルネットの新たな理論的枠組です。特徴統合が、〈述語=特徴〉が〈主語=表象〉によって統合されると理解すると、〈文=主語・述語結合〉は時間的に後から成立することになり、〈文〉からの〈命題〉の抽出、さらにそこからの〈論理〉の構築は、後発的になります。この理論によって、脳が、論理の手前の述語性のみの段階から主語による統合の段階へ向かうプロセスを反復していると想定できます。それはあたかも、論理の手前で、いわば場面的な述語性のステージから主語の探索を経て文を作っていくという、詩人の創作にも似たプロセスを脳がしていると理解することになります。これにより、現象学とも調和的な認知過程の理論が形成できるのではないかと考えられます。
私は情報処理の核心に切り込んでいき、それを述語性を基盤とする生命哲学、たとえば西田哲学やハイデガーの哲学とも調和する理論へと、変貌させることを目指してきました。こうした言語(学)的再解釈に基づく考え方によって、生命的で倫理的な思考を可能とするニューラルネットの理論構築にも、一定の寄与できるのではないかと考えています。
このような高齢者らしからぬ熱き思いをもって、研究の発信を目的としたホームページを作成することにしました。
わたしのこれまでの研究の流れについては、以下の2つの著作を参考にしてください。
- 生活と思索-「先駆的二人称」を求めて 北樹出版 2017
- 生活と論理-人称のロゴスを求めて 北樹出版 2020
English Summary
Two of my longtime friends, both psychologists—one a cognitive psychologist and the other a clinical psychologist—made a surprising observation. Independently and years apart, they both told me the same thing: “Your research has been consistently focused from a young age.” On the surface, my research might seem unfocused and drifting over various topics, but deep down, I’ve always been driven by a single core theme, one that has guided me through an existential quest.
This consistent theme is the problem of consciousness and the brain. However, for me, it’s not just a scientific puzzle; it’s a profound question about the meaning and value of human existence. I’ve always felt a sense of crisis with the dominant information-processing model in psychology, which treats the brain as a biological computer based on logical computation. My concern is that this view might be missing something crucial—the very essence of life, emotion, and values.
Over several decades, I’ve worked to build a new theoretical framework to address this. My recent work offers a linguistic reinterpretation of feature integration theory. I propose that the brain repeatedly moves from a pre-logical state of predicative features to a stage where a subject integrates them. This process is like a poet creating a sentence from a list of words, which allows for a theory of cognitive processes that is in harmony with phenomenology.
I believe this approach can transform the core of information processing psychology into a philosophy of life grounded in predicativity, one that aligns with philosophies like those of the Kyoto School, Kitaro Nishida, and Martin Heidegger. I hope this perspective will contribute to a neural network theory that can account for ethical and living thought.
This homepage is a way for me to share this passion. For more details on my research journey, please refer to my two previous books, A Life and Meditation: Searching for “Anticipatory Second Person“ (生活と思索:「先駆的二人称」を求めて) and A Life and Logic: Searching for “λόγος” of Grammatical Person(生活と論理:人称のロゴスを求めて).
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